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久留米市民オーケストラホームページアドレス:http://www.kurumeshiminorchestra.jp/


カウント開始年月日:2003/07/01




メールはこちらまで(岡崎 壽範)





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2003年6月24日投稿分掲載
西南学院OBオーケストラ第十一回定期演奏会(1999年9月12日)パンフレットより

 ドビュッシーという人が語られるとき気の毒なことは、変人、というより人でなしぶりばかりが先行し、その作風と結びつけられてしまうことだ。エゴイストで陰口が好き、借金は踏み倒す、柔弱遊情、官能主義者、皮肉屋。喧嘩好きのくせにからきし弱く、背は低く太め、青白い顔に垂れた瞼、長い顎鬚、憂鬱そうな表情、常に病的で額の突き出た様は「脳水腫に罹ったキリスト」とまで呼ばれた。それでも愛してくれた女性すら、しかも2人も無残に棄て、自殺未遂にまで追いやったような男を、世間が良く言うはずはない。「ああいう人が創った曲はこんな風になる」的な世評は、それはそれで必然なのかも知れない。
 若い頃の彼はカフェやキャバレー(といっても今日的なお父さんの社交場ではなく)で知り合った「自由奔放な芸術家たち」--ランボォ、ヴェルレーヌ、マラルメ、スーラ、ゴーギャン、ルノワール、モネ、ドガなど--を通じて当時の流行を思い切り吸収した。後に彼の作品に影響した東洋、特に日本趣味もこの頃芽生えたものだ。音楽院に在学中、名教授フランクに反抗し「転調マシン」というあだ名まで付けた彼は、既存の音楽よりむしろ同時代の文学を理想形としていた。そんな彼がマラルメの長詩『牧神の午後』に興味を示したのは当然の成り行きかも知れない。
 この『牧神の午後への前奏曲』を音楽史上の大事件と評価する人は多い。いわく19世紀の修辞法を破壊、20世紀音楽の進路を決めた、音自体の持つ力の獲得、音楽界のランボォ、ヴェルレーヌである云々。大仰はともかく、他の芸術の後追いをしていた音楽というジャンルが一気にアップ・トゥ・デートになったという功績は確かだろう。
 2度も酷い女の捨て方をしたドビュッシーは、3度目には人妻エンマ・バルザックとの間に娘をもうけ、奪い取った後正式に妻とした。懲りない男だ。しかし、エンマの知性と芸術的素養、強い母性は、自分似の可愛い娘と相俟って、彼のそれまで渇いていた心を満たす。「やっと会えたね」ということなのだろうか。それまでの浪費癖と手当たり次第の女の悪さは、生活のためには仕事を選り好みしない指揮活動と、同じ家に住んでいながら妻にラブレターを書き、それを娘に配達させるという愛情の豊かさへと変わった。あの快楽主義者が『子供の領分』を書くなど、誰が想像し得ただろうか。
 だが、生活のための無理は彼の身体を蝕む。やっと掴んだ人並みの幸福から10年目の春の日の夕方、昏睡に陥ったドビュッシーは世を去った。その最期は「彼の描いたメリザンドのよう」に穏やかなものだったという。

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2003年6月24日投稿分掲載
西南学院OBオーケストラ第十一回定期演奏会(1999年9月12日)パンフレットより

 宇多田ヒカルの志望校はコロンビア大学らしい。志望動機は「NYの自宅から近いから」。日本でいえば「文京区に住んでいるので東大へ行く」ということか。
 ペテルブルクの法律学校を飛び級しながら優秀な成績で卒業し、法務省官吏となりながら作曲の道にどっぷりとつかり、エリートとしての前途を投げ出して結局退職してしまったチャイコフスキーはどうだろう。少なくとも我々一般人は「オリコンいきなりベストテン入り! 注目の26歳は東大法学部在学中に国家T種合格→大蔵省在職中の超エリート」などと女性○身に載ったヤツをフツー人とは思わない。
 『弦楽のためのセレナーデ ハ長調』は、彼が人生の失敗=結婚から立ち直り、猛烈に作曲しはじめた頃のものだ。「書くことがなくなると退屈してしまいます」「このセレナーデは内からの衝動に駆られて創ったので気持ちがこもったものになったし、本当の価値を持たせなくてはと思っています」。同時進行で全く反対キャラの『1812年』に精力的に取り組んでいることからも、彼の絶好調ぶりがうかがえる。
 『アタマの良い奴は難しいことを言わない』と昔、人から聞いたことがある。いろいろな決まりごとをクリアして、奇をてらうことなく、単純明快でしかも正攻法。そして魅せます、泣かせます。チャイコフスキーにしても、Hikkiにしても、あぁ、天才たちの『甘いワナ』って、なんて心地いいんでしょう。
1.ソナチネ形式の小品
2.ワルツ(円舞曲)
3.エレジー(悲歌)
4.ロシア的主題による終曲

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2003年6月24日投稿分掲載
西南学院OBオーケストラ第十一回定期演奏会(1999年9月12日)パンフレットより

 ストラヴィンスキーは、ロシアバレエ団を主宰するディアギレフと組み、初期のバレエ音楽を何作か創った。その締めくくりがこの舞踊音楽『春の祭典』である。
 1人の娘をいけにえとして捧げるという原始主義的なドラマを通じ、ストラヴィンスキーが描こうとしたのは「わずか1時間のうちに」「大地全体がむっくりと起き上がる」「ロシアの猛烈な春」だ。今では「現代音楽の古典」と呼ばれるに至ったこの曲も、バレエ初演を観ようとシャンゼリゼ劇場に詰めかけた1913年の聴衆にとっては天地を揺るがすような大事件であった。しかし、喜心に満ち万物が調和する春を期待した聴衆の失望--彼に対する糾弾にも「私が探求するのは音楽自体の本質を貫くこと」と動じもしない。「20世紀最大の天才的作曲家」は「常にもっぱら自分自身のためにのみ語っていた」(ショスタコーヴィチ)。人を酔わせる技を持っていながら、それを目的としなかったストラヴィンスキーはそれ故に、誰でも知っていて、誰でもがその作品を知らない作曲家になってしまったといえる。この画期的かつ衝撃的な作品は、その後の彼の創作活動の中のほんのあいさつ代わりに過ぎなかったのだから。
 第一部 : 大地礼賛
   1.序奏
   2.春の兆し〜乙女たちの踊り
   3.誘拐
   4.春の踊り
   5.敵の都の人々の戯れ
   6.賢人の行列
   7.大地へのくちづけ
   8.大地の踊り

 第二部 : いけにえ
   9.序奏
   10.乙女たちの神秘な集い
   11.いけにえの讃美
   12.祖先の呼び出し
   13.祖先の儀式
   14.いけにえの踊り

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2003年7月9日投稿分掲載
西南学院OBオーケストラ第七回定期演奏会(1993年7月3日)パンフレットより

  「僕は貴女を愛しています。もう一度お目にかからなければなりません。しかし僕は束縛されるわけにはいかないのです。貴女を僕の腕に抱き、口づけし、貴女を愛していますと言うために、戻っていくべきかどうか、すぐ返事をください」--これが「3大B」と謳われたブラームスの26歳のときのプロポーズの言葉である。「あんたが重荷だからそっちからプロポーズしてくれ」と言っている。当然、彼は振られてしまう。自業自得なのである。

 この曲はよく「ブラームスの<英雄>交響曲である」と言われる。大楽聖の書いた曲で途中が恰好いいから、誰かが名付けたのだろう。ロマン派の花が咲き乱れる中、一人古典を守る道を選び、生涯独身を通し、122曲もの正式な作品を書き殆どが名曲。貧しい家に生まれ乍ら、刻苦勤勉・精励努力し、晩年には地位と名誉と富を手に入れる。これであれば、我々小市民から額に入れて飾られるのも無理はない。

 ブラームスはこの女性--アガーテ・フォン・ジーボルトに振られてしまった10年後、弦楽六重奏曲第2番の中で彼女の名前--AGAT(H)E--を何度も登場させ、憂さを晴らす。何ともしつこく、陰湿である。弟子の才能が自分より優れているからといっていびり遠ざける、派閥の親分にかつぎ上げられ、いやいやながらに引き受け、気がついたら自分が本気になって相手とやり合ってしまう、師匠の奥さんにムラムラッときながら手を出せない…なんのことはない、ちょっと前に流行った『おじさん改造講座』の対象となるに充分な、我々の周りにいくらでもいる、ただの中年の「おやじ」なのである。

 それなのに、いや、だからこそと言うべきか、我々はブラームスの作品に憧れ愛してしまう。『ブラームスの作品は、我々が齢をとっていくごとに輝きを増していく。男の心の宝石みたいなところがあるんです』とある音楽家が言っているのを聞いたことがある。通勤電車に詰め込まれ、心の中で怖い妻に詫び乍ら、ボディコン姐ちゃんに貼りついてしまった視線をばりと剥がし、会社での人間関係に悩み、ボーナスの額を隣の席の奴と見比べ一喜一憂する。煩悩を胸にかかえ悩みながら生きている男にとってブラームスの作品は、赤ちょうちんで一緒に愚痴をこぼし合う、深い心の友のようなものに思える。R・シュトラウスは自分=英雄として交響詩に描いた。誰が言い出したかは知らないブラームスの英雄も、人生に堪えて生きている一人の男と捉える時、曲の節々に思わず頷かずにはいられないのだ。

 作曲されたのは1883年、ブラームスが50歳の年、ワーグナーが亡くなった年でもある。喧嘩の相手を失ったブラームスはどんな気持ちで筆を進めたのだろう。全ての楽章が小さい音で終わるこの交響曲は、初演のときから好評で迎えられたと伝えられている。

 
*10年前といえばまだ「オヤジ」という言葉(概念か)はなく、そういう人たちのことを一般的にオジサンと呼んでいましたね。ボディコンも今となっては絶滅(危惧)種。ギャルと置き換えるには侘しいような気もします。つい先日出張中に新橋の駅前で「あなたはボーナスをもらいましたか」というインタビューを受けました。出す側の私はなんと答えたらいいのでしょうか。いやいや10年と一口に言っもなかなかに長く重いものです。
 

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2003年7月9日投稿分掲載
西南学院OBオーケストラ第七回定期演奏会(1993年7月3日)パンフレットより

 音楽家とて人間である。チャンスさえあれば地位も名誉も富も欲しくなるのが人情であろう。そのために徒党を組み、人の陰口を言い、時には実力行使に出る。これは、サラリーマンであろうが、現代の音楽家であろうが、高崎山のサルであろうが大差なく、歪んだ感情が余り感じられない分サルのほうが罪が軽いようにも思う。

 こういう抗争が泥沼と化し、対立する各派自身で決着を付けることができなくなった時、余り利害の関係しない第三者を権力の座に据えてしまうことによって収集を図るといった手法は古今東西よく使われる。パリ音楽院の教授に就任する前から同校の出身ではないという理由で悪評〜何の免許も持たない教授に何の権威があるのか云々〜を立てられ、それから9年後に院長職に就いたフォーレについて、弟子のヴュイエルモーズはこう語っている。

 「ガブリエル・フォーレは外見上は何ら教師らしい様子はしていなかった。生徒には淡白で、親切で、好意的だった彼は、生徒監のような尊大な態度で彼らを押さえつけようとはしなかった。彼は生徒たちを弟のように親しく扱った。しかしそれにもかかわらず、彼には抗し難い力を及ぼす不思議なある種の権威が備わっていた。それは他ならぬ彼の天分である。どんなに年期を経た教師でも、常に微笑を絶やさずに、全く横柄な態度をとることなく、彼が行ったと同じように生徒たちを心服させることは決してできなかった。彼は生徒たちの心を掴み、その音楽の絶対的な優越性をもって、理解力や天分を欠いた、彼の理想を受け入れることができぬ生徒をも征服した。」

 この組曲は彼の数少ないオーケストラ曲(全121作のうち7作)の一つである。弟子が語ったところによれば、彼はオーケストレーションに取り組むのが億劫で--決して苦手なのではなかったことはこの組曲を聴けば了解できるが--それにとられる時間が惜しいと考えていたらしく、この曲のほか2、3曲を除いて殆どの作業を弟子たちに任せてしまっていた。オーケストレーションの力を借りなければ作品に生命を吹き込めなかった他の作曲家たちは、この作曲家の高邁な怠惰をずい分羨ましく思ったに違いない。

 物語はベルギーの劇作家メーテルランクの手によるもので、中世の城を舞台に、2人の兄弟の愛の板挟みとなったメリザンドの哀しい運命を描いたものである。メリザンドを愛したぺリアスはその異父兄弟であり、メリザンドの夫であるゴローに殺され、メリザンドもまた幼い子を残してぺリアスの後を追うというひどい話だが、その筋立ての絶妙さ故、シベリウス、ドビュッシー、シェーンベルクらも音楽をつけている。

 蛇足だが、人畜無害と思われたフォーレ院長は、意外にも有害教師の排除に立ち上がり、その殆どを追い出してしまうことに成功する。その様は学生たちからロベスピエールの様だと呼ばれたと伝えられる。今や世紀末の日本の楽壇にもフォーレのような音楽家が何人かはいる筈である。表舞台への登場を切に待ち望む。

 1.『前奏曲』弦の主題はメリザンド、遠くから聞こえるホルンはゴロー、フルート、ファゴット、チェロは待受ける運命を表すとされる。

 2.『糸を紡ぐ女』弦の三連音は紡ぎ車が回る音を表す。

 3.『シシリエンヌ』

 4.『メリザンドの死』

 
*これを書いたころは、いわゆるバブル崩壊や日本経済の危機が本気で言われ始めたころでした。言い換えればその直前まではあぶく銭が湯水のように色んなところへ流れ込んでいた時期でもあります。このころだったでしょうか、クラシックブームなるものがやってきたのは。アマチュアの私がこんなこと言うとまたどこぞからしかられそうですが音楽(家)の世界も得体の知れないゴールドラッシュを謳歌していたように思います。また見方を変えれば後の行政改革にかかわる批判の対象になるほどに色々なホールをはじめとする後世に残る投資がなされた時期であることは喜ぶべき皮肉です。

 このころ流れに取り残されたすばらしい音楽家の不遇を嘆いた時期がありました。フォーレの伝記を読んで、豊かな経験や才能を持っていながら世渡り下手のゆえにうずもれた音楽家が日の目を見ることは日本ではもうないのかな、と寂しい気持ちでこれを書いたのを思い出します。

 いまの日本(の音楽の世界)はどうでしょう。私はすごく良くなったなと思います。みんなが貧しくなって余裕がなくなって、施されたもの、与えられていたものを、家元制度もどきの余計なしがらみや窮屈なギョーカイの約束事も気にせずありがたく本気に受け取り、取り組みだしたのではないか、と。音楽にかかわる自由な試みがバブル期になされた投資を使って色んなところでなされています。上から下まで眺めた上での「なんかやろうとする活気」は今のほうがあるし、また充実しているように感じます。

 ただ・・・。何かやろう、と、何でもいいからやろうが混同されるような風潮を私は恐れます。

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2003年7月9日投稿分掲載
西南学院OBオーケストラ第七回定期演奏会(1993年7月3日)パンフレットより


  ドヴォルザークがボヘミアを、ハチャトゥリアンがアルメニアを、コダーイがハンガリーをという風に、ある土地を愛し、その想いを音楽に託した作曲家は数多い。レスピーギは、生地ではないローマを心から愛し、3曲を遺した。他の作曲家と比べ、ローマには作品のテーマとなるような独特のリズムや旋法がある訳ではなかった(汎ヨーロッパたるグレゴリオ聖歌はこの地の出身ではあるが)というハンディを、リムスキーコルサコフやブルッフ譲りの華やかなオーケストレーションで補い、ローマを描くことができた。この曲を聴いてローマを想い浮かべるかどうかは受け手の全く自由である。レスピーギはわざわざ親切に「はしがき」的なものを用意してくれているが、どういうつもりだったのだろう。まさか曲の最中で岸○今日子に語らせるつもりだったとも思えないのだが。一応以下に記す。

 
 1.『ボルゲーゼ庭園の松』ボルゲーゼ庭園の松林で子供たちがあそんでいる。丸く輪になって踊り、兵隊さんごっこをして行進したり戦ったりしている。そして、夕暮れのつばめのように自分たちの叫び声に興奮して、群れをなして走り去る。不意に情景が変わり、…

 2.『カタコンベの傍らの松』カタコンベ(初期キリスト教時代の地下墓所)の入り口を囲んでいる松の木陰が見える。その奥底からは、悲嘆にくれた聖歌が聴こえてくる。そして、それは荘重な賛歌のように大気に漂い、また神秘的に消えてゆく。

 3.『ジャニコロの丘の松』ざわめきが大気を通ってゆく。ジャニコロの丘(ローマ南西の丘。ローマの街を一望できる)の松は、満月の明るい光の中でくっきり浮かび上がっている。ナイチンゲールが歌っている。

 4.『アッピア街道の松』アッピア街道(ユピテル神殿のあった聖地。ローマの将軍は凱旋の際にかならずここに参詣した)の松の霧深い夜明け。ローマの悲惨な平原を見守る孤独な松。かすかではあるが、おびただしい足音の絶えざるリズム。詩人の空想には、古代の栄光の幻影が現れる。トランペットが高らかに鳴り響き、執政官の軍勢は新たに昇る太陽の輝きの中で、凱旋してカンピドリオの丘を登ろうと神聖街道を疾走してゆく。

 
*この間テレビで○田今日子さんを見ました。しかも若向けのバラエティ。まだお元気なんですねえ。おいくつなんでしょう。

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